やまうらの文章

やまうらが思ったことなどを書いてます。

人食い大鷲のトリコについて、考えてみるとゲームの未来が見えてくるのかもしれない。

 エンディングまで見たので、とりあえず感想を含めて述べていきます。

 

 このゲームを語る上で、上田文人という人の概要を知っておいて欲しい。株式会社ワープに入社し、セガサターンのゲーム「エネミー・ゼロ」でCGIデザイナーとして制作。その後、ソニー・コンピュータエンタテインメント入社し、プレイステーション2の「ICO」「ワンダと巨像」でゲームデザイン、ディレクターを務めている。

 ゲーム界の鬼才、飯野賢治のそばで、ゲーム制作のイロハを学んだことで、彼の影響を受けていると感じる。

 彼の作風の特徴として、絵本のような手触り感のあるゲームであり、その作風は日本のゲーム界では類を見ないもので、ゲームとは何かを改めさせて考えさせられるものが多い。

 今まで出したゲームは徹頭徹尾のアクションアドベンチャーゲーム。無駄を省き、世界観を作り込み、プレイしているものから現実を引きはがし、ゲーム世界にいざなう。まるでジブリの世界に迷い込んだかのごとく、中世ヨーロッパの世界観を作り上げることに長けている。しかし、ジブリとは決定的に異なるのは、物語を見せるのではなく、ゲームという手触りの体験を大事にしているという部分を核として、ゲームをデザインしていくクリエイターである。

 

 そんな彼の最新作が、「人食い大鷲のトリコ」である。

 内容としては、大人になった主人公が、子供の頃、大鷲にさらわれたが、その大鷲と共に脱出をしたという数奇な話を語る。その子供時代を体験していくゲームになっている。要するに、大鷲を利用していく脱出ゲームになっているが、自分で大鷲は操作することが出来ないので、自分と動物とのコミュニケーションのジレンマの様な部分をもどかしく体験出来るゲームとなっていた。

 

 話は前後するが、彼の作品の「ワンダと巨像」はクリアしているが、「ICO」はクリアしていない。プレイした当時を思い返してみると、「ワンダと巨像」は「自己と対峙」がメインで、困難を自分で乗り越えるので、自由にならない部分は自分のみだったが、「ICO」は少年イコと少女ヨルダの偶像劇で、少女を守るという名目での「他者との対峙」で他者との干渉による自由にならない部分がどうしても自分には許せなかった。そして、そこに面白味を感じることが出来なかった。

 

 「人食い大鷲のトリコ」は「獣との対峙」。ペットを飼うような、動物との触れ合いを描いている。自分と対等では無い事を理解しているからこそ、思い通りには行かないというジレンマを受け入れる事が容易く出来た。それは「ICO」では自分と対等である割に、少女ヨルダのAI行動に不満を覚えたが、大鷲トリコであれば、獣だから仕方が無いと妥協出来る部分が持てたのか、それとも形容が重要なのか、年月を重ね自分自身の変化なのか、あるいは全てか。ただし、自己操作で無い部分なので致し方ないと言って割り切れているとはいえ、ストレスが無いというわけではない。

 

 システム内容の思想は、相も変わらずシンプルで、体験。それに尽きるシンプルな構造で、何も考えなくていい。そして人間らしさを感じる挙動であり、キビキビとしていない。

 これらをネガティブと捉えるかは難しい。今は大ヒットゲームであるモンスターハンターも、リアルな挙動の為に戸惑った。身の丈ほどある大剣を振るのには、現実世界と同じで、振ことすら困難で、動きが遅く当たりにくい。そして、モンスターの攻撃力は半端無く、すぐ死に、コントローラー操作はスティック操作で戸惑いを覚えた。

 アクションゲームは華麗で派手に気持ちよく。それが今までの流れだったが、それを一新させ、敵からの攻撃をかわし、隙を突いた一瞬で大剣を叩き込む。そういう今までのアクションの流れとは違った事で注目を集めた。今に至ってはその要素では無い部分が、ウケてヒットし、突き詰めており、この部分は廃れてきているが、発表当時はまさしくこの違和感を感じる部分が楽しみと感じていた。

 

 「人食い大鷲のトリコ」をプレイしていて、どうしても納得いかないのはカメラワークにある。これはゲームの根幹にかかわるが、どうしても三人称視点であれば、カメラをどういう風に見せるかがアクションゲームのキモとなる。各種ゲームにおいて嗜好はあるが、上下左右に自分でカメラワークを処理出来るようにしつつ、ある程度のアクションで正面になるように自動追従させたりするのだが、最低限の行為として、たとえばマップ端の部分でカメラが埋まって見えないなどというようなことは避けるのだが、このゲームはマップ端はもちろんの事、大鷲トリコにぶら下がったり、トリコに挟まれてマップ際に行くと、カメラがブラックアウトしてしまう。そして、カメラ操作が不能になったりし、主人公がトリコから離れたり、マップ際から離れてカメラを復旧させなければならない。この作業に不快感しか感じなかった。

 

 ダメな部分が目に行きがちだが、この部分も含めてゲームとしては新たな価値を発見する事が出来た。

 テレビゲームとは何か。最初に自分の思い当る所は快感だと思っている。ボタンによるリアクション、レベルアップによる達成感、大勢の者を切り伏せるアクション、快感の種類は色々あるが、快感による中毒がゲームにおいて必要な要素の一つになっているのは間違いない。

 多くの快感がある中で、どちらかというと、苦痛や苦行からの解放に対しては快感と思わないタイプだった。

 「人食い大鷲のトリコ」をプレイしてみて気づいた点として、体験、もしくは経験による快感。それは通り過ぎた過去を思い出す快感であり、苦行や苦痛からの解放の一種だと思う。

 このゲームは爽快なアクションではない。堅実な現実のように、少年の動きは鈍く、重く、動きにくい部分が多々に存在する。その反面、超人的な部分があるが、それは相反しすぎるので目をつぶろうと思う。

 作られた仮想現実の中で、現実のように重みのある動きで、信じられないような体験を繰り返していく。そこの一つ一つには快感は無く、苦行やストレスの連続ではあったものの、ゲーム内の主人公の体験や経験とリンクさせると、至極当然であり、楽しみよりも苦痛の連続で、過酷と世界を生き抜く為にはそれが必要なのだった。

 苦行、苦痛からの解放による快楽。我慢。その先に見える世界があった。ゲームにおいての快楽は直結的なモノで気持ちいいモノを中心としていたが、過酷である体験を、ゲームで体感することによる感動を生み出している。

 誰かになる。そういうことは現実ではできないが、ゲームの中では体験することができる。今まで当たり前だったが、表現を変えて、辛い部分を経験させる事で仮想体験の違いが出てきたように思えた。

 

 VR元年でもあった2016年。当たり前に感じていたことをエンターテイメントに昇華させることで、まだまだゲームの可能性を広げていくことは可能なんだと感じさせてくれる作品だった。